天文12年(1543)種子島へポルトガル人の来航、続く天文18年(1549)3名のイエズス会宣教師(フランシスコ・ザビエル、コスメ・デ・トーレス、フアン・フェルナンデス、)の鹿児島上陸により、日本人はヨーロッパ人と初めて出会うこととなり、寛永年間以降の鎖国にいたる約100年間に、日本を訪れたヨーロッパ人は、主にポルトガル、スペイン、イタリアといつた国々の出身であり、彼等によって、南蛮文化がもたらされる事になりました。
 古くから菊池川の水上交通の要衝であつた玉名市高瀬は、鎌倉末期〜室町時代(14〜16世紀)には、その交易の範囲をアジア各地に広げました。マラッカ、マカオ等に拠点を築いたヨーロッパ人が高瀬を訪れる背景の一つはここにあったといえます。加えて、戦国時代肥後で国衆が争う中、高瀬は豊後の大友氏の支配下に入って町衆による一種の自治体制を維持し、大友氏の肥後における重要な拠点となりました。
 九州の布教を進めるイエズス会士にとって、高瀬はキリシタン大名大友宗麟の支配する豊後と、大村、有馬の両キリシタン大名を擁し、平戸などの海外貿易港を持つ西九州とを往来・連絡する拠点であり、多くの宣教師が訪れ滞在しました。特に、第二代日本布教長をつとめたトーレスは永禄6〜7年(1563〜1564)にかけて高瀬に滞在、また永禄7年(1564)日本で最初に没した宣教師ドゥアルテ・ダ・シルヴァの終焉の地も高瀬でした。その他、{日本史}を著したルイス・フロイス、府内(大分)に外科治療を伴う日本最初の病院を建設したルイス・アルメイダ等も高瀬を訪れています。トーレスは志岐(苓北町)で、アルメイダは河内浦(天草市河浦町)で亡くなっています。
江戸時代を通じても、高瀬は肥後米の積み出し港となるなど、水上貿易港としての繁栄を続け、その遺構(俵ころがし、眼鏡橋等)や歴史的町並みは、現在も玉名市高瀬の随所に残っています。また最近では、こうした川沿いの景観や、歴史的町並みを観光や街づくりに生かそうという官民の動きも盛んになっています。
 こうした高瀬の一角に、世界史的な「大航海時代」との関わりを伝える記念碑が建立されましたならば、歴史的景観のもつ価値を、いっそう増し加えるものと確信します。
 また過去の歴史的交流の足跡を記すことで、今日また将来にわたる、ポルトガル・スペイン・イタリアといった諸国との、地域発の国際交流にも貢献するでしょう。



 
「生誕500年」高瀬にやって来たスペイン人コスメ・デ・トーレスの記念碑を造ろう