話し/岡田正二
まちかど教養講座【高瀬夜噺】/日時:2008年1月25日 19:00〜 /熊本県玉名市「高瀬蔵イベントホール」にて

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アルメイダ記念碑
1552年ポルトガル人で、商人であり、外科医、宣教師であつたアルメイダが来日、1556年アルメイダは豊後 府内で日本最初の総合病院を自費で建てて、洋式医療を行います。アルメイダの功績を顕彰するため現在、大分には見事なアルメイダ病院が建っております。
1561年(永禄4年)アルメイダは、豊後を出て鹿児島に行く途中高瀬に立ち寄っています。最初に高瀬に立ち寄った宣教師であり、南蛮人でありました。アルメイダは大分のアルメイダ病院や、長崎で宿泊していた春徳寺や、逝去した天草の河浦町には記念碑や、碑文が立っております。

アルメイダ記念碑
*志岐麟泉は、アルメイダを天草の志岐に招聘して、布教に当たらせるが後、反キリシタンとなった。
*その後、天草氏の招聘で、河内浦に行き、布教、其処で没する。

*其の年、日本では、1560年織田信長が桶狭間において、今川義元を破っております。

 其の年、トーレスは、フェルナンデスを随行して豊後から、横瀬浦へ行く途中、高瀬に立ち寄っています。

 1563年大村純忠が洗礼を受けて、キリシタン大名になり、横瀬浦に教会を建てて、キリシタン貿易の拠点にしようと、計画致しました。
*大友純忠は、キリシタンの信仰が、過激で、神社、仏閣や、先祖の墓まで打ち壊したので、暴動が起きた。

 其の後、反大村純忠派や佛教徒が暴動を起こしまして、横瀬浦の教会が、放火、破壊されて、其の時、横瀬浦に居りました、トーレスは横瀬浦を逃げ出して、1563年11月より有明海の高瀬港に入り、数ヶ月間高瀬に滞在いたします。アルメイダとゴンサルバスが随行いたします。

 しかし高瀬に着いた、トーレス一行は、高瀬の住民からひどい仕打ちを受けています。長崎の「26聖人記念館」の元館長だったスペイン人の、今は日本に帰化している結城了悟と云う人が書いた「長崎を開いた人、コスメ・デ・トーレスの生涯」と云う本によれば、トーレス一行が、高瀬に着いた時、異教徒の群衆に囲まれ、町の破壊者、或いは、子供を食う者、その他、様々の言葉で、トーレスを罵倒し、一日中囲みを解きませんでした。トーレスは、これを見て両眼を天に向け、ただ嘆声をあげ、ため息をつくのみでありました。そして、海岸に長い間いた後、遂にイルマン・ルイスが粗末な貧しい宿泊所を見つけて、彼らは其処に入ることができました。
 しかし、トーレスは高瀬を立ち去ることを、望みませんでした。
横瀬浦の壊滅、島原の悲しい船出の後、高瀬の海岸で、敵意に満ちた群集に取り囲まれた
 病める孤独の老人の姿は、トーレスの生涯に於ける暗い夜の頂点を示すものだったでしよう。

 トーレスはアルメイダを大友宗麟に使いを出して、救いを求めます。宗麟は、高瀬の主要な諸家臣に手紙を送って、トーレス一行に家、土地を与え、トーレスの世話を命じ、希望する者は誰でもキリシタンになって良いと知らせてきたのですが、「二ヵ月たっても、高瀬の人々がキリシタンにならないので、宗麟は、署名入りの命令書に自ら署名をして、第一、我が領民は、老若を問わず、すべてキリシタンたること、勝手なるべし。第二、神の教えを説く所において、説教者に如何なる妨害、侮辱をも加えるべからず、違反者は処罰さるべきこと。第三、我が領内において神の教えの常に説かれることを、喜ぶものなり」。
 しかし高瀬の人たちが、何人キリシタンになったかは、記録では分かっておりません。
 






伊倉キリシタン墓地
 翌、1564年(永禄7年)高瀬に居りました、トーレスの命令で川尻に布教に出掛けていた、ポルトガル人宣教師シルバーが、病気になり、病が重いことを知ったアルメイダが、急遽川尻に迎えに出かけます。シルバーは、最後の秘蹟をトーレスから受けたいと、願います。アルメイダはシルバーを舟に乗せて川尻から、高瀬に連れてきますが10日ほど過ぎた5月に、トーレスとアルメイダに看取られながら、ポルトガル人宣教師ドウアルテ・ダ・シルヴァーが、高瀬において死亡いたします。日本で最初に死亡した宣教師であります。
 又死亡したシルヴァーは日本語の文法を作り、日本語大辞典の基礎を作るなど、当時の日本人が考えかなかつた事をして居ります。立派な人だったのですね。
 実はシルバーではないかと云う人の墓が、伊倉にあるのです。伊倉キリシタン墓碑で、まだ確定した訳ではありませんが、市の文化財になって居ります。
 

ペーが墓
 トーレスはその後、口之津から志岐に移動します。
 トーレスは1570年10月2日、志岐(今の天草の富岡町)で没します。
 先日、熊本大学講師椎名浩先生のご指導で長崎と天草のキリシタン遺跡の探訪に出掛けたとき、五和町の御領で千基のキリシタンの墓の中で、唯一名前が残っている、「ペーが墓」を見てきました。
* 御領内には、千基のキリシタンの墓がありますけれども、ペーが墓以外は、全然名前が残っていません。
* 又、御領は志岐麟泉の領内であった。

本渡市の天草ポルトガル協会会長の堀田善久氏が言うのに、これは、パードレ(宣教師)が訛ってペーが墓になったのだから、此れは、コスメ・デ・トーレスの墓に間違いないと話されていました。
 

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「生誕500年」高瀬にやって来たスペイン人コスメ・デ・トーレスの記念碑を造ろう